展覧会アーカイブス 1987

これまでの無人スペース(第1室:B)に加えて、小林正和さんと親しくしていた夫、川島紘一の資金援助で、空いていた北側の広い部屋(第2室:E+F)を借りあげ、小林さん自身が床を張って、ギャラリーギャラリー第2弾がスタート。第2室では、広いスペースを生かした大掛かりな空間構成が可能になりました。
81年開廊後の3年間は設立者の小林さん、草間喆雄さん、浅井伸一さんの3人が画廊を共同運営していましたが、84年から86年の3年間は小林さん1人が作家セレクト。87年からは第1室・第2室とも企画/貸画廊としましたが、情報がゆきとどかず、借りる作家はほとんどおらず、小林さん自らが知り合いに頼んでいるという状況でした。その小林さんが87年を最後にリタイアするということで、88年以降、ギャラリーギャラリーは完全な貸画廊として、川嶋啓子が全面的に運営を受け継ぐことになります。その為、川嶋は、北白川の店を閉じ、ギャラリーのアシスタントも兼ね、新しくできた第2室の一角に設えた小スペースで画廊の留守番をしながら、運営の補助をすることになりました。
10月に開催した倉俣史朗展は、小林さんが「最後にやりたかった展覧会」でした。当時の倉俣さんは売れっ子のインテリアデザイナー。小さな個人画廊での個展は、「内密にする」との約束で実現。オープニングレセプション等はせず、倉俣さんが京都に来られた時に、関係者のみで会食したのが記念になりました。展覧会後、「個展の記念」に出品されていたテーブルのひとつを川嶋が購入して画廊で使用していましたが、閉廊の際に京都国立近代美術館に寄贈しました。現在は同館コレクションとして親しまれています。(川嶋)
→ 寿ビル5F展開図へ:第1室(B)、第2室(E+F、Fの端に小さな事務所スペースF’を設置)
○読売新聞 1987年4月18日
がろう探訪 ギャラリーギャラリー 白塗りの空間自由に
四条河原町を下った古いビルの5階に、無人ギャラリーとして5年前に開設。ファイバーアート作家小林正和さんらが、照明設備もない白塗りの空間を自由に使い、ギャラリー全体が作品になるギャラリーにと名付けた。
ガラス越しに見るだけで、中には入れないので、ショーウインドーのよう。一対一で純粋に作品だけを見てほしいという気持ちから無人にした。今年1月、作品についての意見を直接聞くことも大切だと、隣の事務所を人が出入りできる貸し画廊にした。これを機にオーナーになった川嶋啓子さんは「若い人が実験の場として、新しいことに挑戦する場にしてほしい」と話している。ファイバーアート中心から現代美術一般の画廊へと脱皮をはかりつつある。
約22平方メートル、12日間7万2千円。新しいギャラリーは、約30平方メートル、12日間10万8千円。午前11時から午後5時まで。日・祝日定休。



























