展覧会アーカイブス 1988

grinded fabric
room1/2




作家紹介
- 田中 千世子
掲載紙
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たんねんに織った綴織麻布を、惜しげもなくレンガで地面にこすりつけて傷をつけ、布という素材からもう一つの表情を引き出すのは田中千世子。渋く気品漂う段模様のヨコ糸組織に隠れたタテ糸が、傷のおかげでチラリと顔をのぞかせる効果もさることながら、水平の布に垂直の力を加えた行為の跡が、寡(か)黙な布から強靭(じん)に伝わってくる。(F)
京都新聞 1988年10月8日
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田中千世子展
1988年10/1-10/14 京都・ギャラリーギャラリー
「布を織るという行為は“今”という瞬間の積み重ねである。」総てこの観点から作者・田中千世子さんの作品は生まれている。精緻に時間を積み重ねた綴れ織りの麻布は、小石の転がる地面の上におかれレンガで表面を削り取られている。ほつれ、小穴の開いた削り跡からは緯糸に覆われた経糸が見え隠れする。これは織り始めから織り終わりまでの時間のずれを内在する布にもう一度“今”を封印する行為であり、同時に過ぎた時間・過ぎた自身の姿を暴いて現在に再びひきずり出す行為でもある。決して形の描写や造形に走らず、どこまでも自らの時間と対峙する作者の真摯な姿勢が、作品の前に真近に立つ者を静かに圧する力強さを感じさせる。『染織α』1988年12月号No.95
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時を織る、時を覗く
三月兎のあとを追って、アリスは穴に飛び込む。穴の向こうは、チェシャ猫がニヤニヤ笑い、ハートの女王がすぐに「首をちょん切れ」と命じる不思議な国。穴のこちらとは異なった、奇妙な新しい空間。
キャンバスに穴をあけたルチオ・フォンターナは次のように言う。「……宇宙の発見は新しいひとつの次元であり、無限である。それで私はこのキャンバスに穴をあける…。穴は、その背後にある空間を創造することであった。」
田中千世子は、織物に穴をあける。彼女がここ数年間続けている“Grinded Fabric”のシリーズのひとつである。地面に織り布を置き、レンガでこすりつける。端正に仕上げられた表面は、そのいささか乱暴とも言える行為によって、強い存在感を身につけた独特のテクスチュアになる。そして、傷つけられることで作られた多くの小さな穴から、横糸で形成された表面の下に、わずかに縦糸が姿を現す。赤い布は、思いもかけない鮮やかな青を、その背後に隠していさえする。壁に掛けられた平面のように見える一枚の織物が、もうひとつの次元の裂け目を秘かに開け、新しい空間の様相を帯び、織の原理である縦糸と横糸との関係を告げてくれる。
しかし、キャンバスにあけられた穴にも、織物にあけられた穴にも、もちろん私たちは飛び込むわけにはいかない。アリスのように不思議の国に入れない私たちに許されるのは、覗き込むこと。幾分かの“期待”をこめて。そして“期待”とは極めて時間的な概念だ。未来を現在にたぐり寄せ、現在を未来へと送り返す。その二つの時は、ぴったりと重なり合って一つになることはない。少しずつずれながら、反復される運動の中で“期待”は持続する。私たち観者の時間は、そのようなものだろう。
では、作者の側はどうだろうか。田中千世子は、時を織っている。彼女にとって織の時間は、垂直に下へ下へと流れていくものだ、と言う。今、機で織られたひとすじは、次の瞬間には眼の前を通り過ぎ、下へと落ちて手の届かない彼方に消える。垂直に消え続けていった時を取り戻すため、彼女は、織り上がった布を今度は水平に地面に置き、レンガでこすって穴をあける。織るという行為とは全く別の行為を介入させることで、もう一度、今を手に入れる。その時間の刻印が、小さな穴になる。
穴の存在(というのは、奇妙な言い方なのかもしれない。むしろ、不在であるのが穴なのではないか)によって、作者の時間と観者の時間とが出逢っている。過ぎて行った時を取りまとめて刻みつけられた作者の“今”と、未だ来ない時を抱き続けている観者の“今”と。過去から未来へ直線的に一方向に流れる時間ではない。別の時間の中で、彼女の作品は静かに息づいている。(吉岡留美)『ART & CRITIQUE 現代芸術批評誌』No.9 (1989.1.1)

展覧会備考
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